アスキーアートと「盗作」

初めに

アスキーアート(AA)は、自由なものだとよく言われる。「パブリックドメインだ」とか「だれにもしばられない」とか。また私も前回のエントリーで、AAはそのように認識されていると、ギコ猫騒動を題材にして書いた。
だがAAにおいて、「盗作」する自由は存在していない。ここでの「盗作」とは、「他人が作ったものを、自分が作ったものであるかのように発表すること」という意味である。いくつかの出来事を見て、AAにおいても「盗作」は禁止されていると思うようになった。
今回のエントリーでは、その思いから出発した「アスキーアートにおける盗作の位置づけ」を考えてみたい。AAにおいて「盗作」はどのように見られているのか。なぜ自由が信条であるAAでも、「盗作」をする自由はないのか。以上のようなことを書いて行こうと思う。
私の考えとしては、AAにおいてもオープンソース文化と同じように評判(名誉)が重視されているため「盗作」が禁止されている、と結論*1を出した。ただしAAの場合は、2ちゃんねるという名無しワールドが存在したため、ハッカーよりは評判(名誉)が抑制されている。

事例

今回の事例としては、次の二つを取り上げる。一つは、次のようなものである。

2000年12月8日に、顔文字板に「2ch顔文字パクリサイト・・・(怒)」というスレッドが立てられた。内容は、ユンカースという人物が運営するサイトにて、ユンカース氏が他人の描いたAAを自分の作品として発表しているというものであった。
スレでは、ユンカース氏への非難のレスがつき、サイトのBBSにて荒らし(炎上)行為を行う者も現れた。
2時30分頃に、ユンカース氏本人と名乗る人物が現れる(IP付)。自身のホームページにログインできないことを伝え、ある2ちゃんねる住人からのアドバイス(命令)により、他のサイトにて謝罪文を載せた。

2ch顔文字パクリサイト・・・(怒)

もう一つの事例として、あるAA描きが書いた以下の文章を取り上げる。(転載の許可をいただき、ありがとうございます)

マジメなAAの話
いきなりマイミクしてきた知らない人の話。

なんだかAAを描いている方のようなので
「おー、やったー」
なんて思いながらマイミク承認をしました。

日記を見る限りmixiで小ネタAAを投下しているようで、
「おお、なんか最先端(?)だなー」
とか思いながら見てみました。

日が経つにつれ「?」と思うことが多くなってきました。
なんか日記にある小ネタの殆どが、目にしたことのあるAAなんです。
気のせいかな?と思い見ていたのですが、
最近始められた「いじめ撲滅日記」と称されてる日記は、
間違いなく長編板にあった「いじめられっこ」というスレにあったAAでした。
インパクトがあったので覚えていました。)

それをまるで自分の作った物のように振舞っていたので、
何度か「コピペじゃないか」と言ってみました。
しかしその度「それは禁句」という返事をされました。
(数日後には自分の書き込みごと消されてました)

ちょっと出しゃばりだったかもしれませんが、
見ていてなんだかお腹がムカムカしてきたので
「せめて元ネタが何かくらい記しなよ」
といった感じのことを言うと、次の日(今日)マイミクから
外されていました。
日記も方も「友人まで公開」に設定されていました。

いくらAAでも、他人の作った作品(?)を、そのままそっくり
自分の手柄にするのはイカガナモノカ…
せめてその作品の保管サイトとかのURLを貼るとか…ねえ?

「盗作」とは

本論に入る前に、「盗作」について考えておきたい。
本エントリーでは、「盗作」の定義を「他人が作ったものを、自分が作ったものであるかのように発表すること」とした。これは、広辞苑に書かれていた定義*2を少し弄ったものである。
このような定義にしたのは、広辞苑に書かれていたからという理由と、この部分が「盗作」と他の著作権侵害(無断転載・無断貸与・無断改変)との違いを特徴付けていると考えているからである。
現在、唐沢俊一氏の「盗作」問題がネットを騒がせている。ここでは、「無断改変」でも「無断コピー」でもなく、「盗作」の問題と言われている。このようになっているのは、漫棚通信氏の名前を出さなかったからだろう。著作者の名前の有無が、この問題を「盗作」の問題としている。
また「盗作」はこの定義の要素があるため、著作権侵害の中で唯一、文字通り「盗み」と言える行為であると考えたからだ。本来、情報としての著作物において、「盗み」は存在しない。「盗み」を所有者である人物を非所有者にする行為とするなら、無限にコピーすることができる情報は、所有者を増やすことはあっても、所有者を減らすことはない。改変やコピーなどの著作権侵害は、「盗み」とは言えない行為である。
それに対して「盗作」は、作者が所有している「自分がその作品の作者である状態」を盗む行為である。本当の作者は、「自分がその作品の作者である状態」を奪われ、単なる「者」になってしまう。
個人的に「盗作」は、一般の著作権侵害より非が重いと感じている。それは、「盗作」が単なる著作権侵害ではなく、本当の「盗み」だからではないだろうか。

ハッカーの慣習を参考にして

では、このような「盗作」は、AAにおいてなぜ禁止されているのか。
もちろん、「盗作」が禁止されているのはAAだけではない。ほとんどの著作物に関して、「盗作」をすることは、嫌な顔をされる行為である。そうするとこの場合は、著作権に鈍感と言えるはずのAAにおいも、なぜ「盗作」に関しては敏感なのか、がより適切な問いであろう。
私はこの答え*3として、AAにおいてもハッカーの慣習が当てはまるからだと考える。この場合の慣習とは、エリック・レイモンド氏が「ノアスフィアの開墾」で掲げた「贈与文化」と「評判ゲーム」である。以下に、その概要を書く。

要約

まずレイモンド氏は、オープンソース文化において三つのタブーがあるとする。一つに、プロジェクトの分岐、二つ目に、モデレータの許可なしに、ソフトに関するプロジェクトを変更すること、三つ目に、ソフトウェア製作に関わった人の名前を管理者リストなどからのぞくこと、である。
レイモンド氏はこれらのタブーが生まれた理由を、オープンソース文化が「贈与文化」であり、その中で「評判ゲーム」が行われているからだとする。
レイモンド氏によれば、「贈与文化」とは「希少性ではなく過剰への適応」であり、「それは生存に不可欠な財について、物質的な欠乏があまりにも起きない社会で生じる」。そして、「贈与の文化では、社会的なステータスはその人がなにをコントロールしているかではなく、その人が何をあげてしまうかで決まる」とする。
オープンソースの世界もこのような「贈与文化」であり、その中では「仲間内の評判以外に地位を獲得する方法は、まずない」(評判ゲームの出現)。そのため、オープンソースの世界にいるハッカーはソフトウェアを共有し、自身の評判をリスクにさらす結果になる上記のことをタブーとしているとする。
その中でも、3番目の「だれかの名前はプロジェクトからはずすことは、文化的な文脈では究極の犯罪」であるらしい。

AA文化の「贈与文化」

AA文化においても、このオープンソース文化と同じ「贈与文化」と「評判ゲーム」が働いていると思う。AAも無限に複製することができるものであり、「物質的な欠乏」が起きない世界である。またAAは、オープンソース・ソフトウェア以上に金には縁遠い世界であり、評判の価値が相対的に高い。
「他人が作ったものを、自分が作ったものであるかのように発表すること」というのは、いわば評判が盗まれることである。「評判」がAA描きの重要な財産であるとするなら、AAが「盗作」に対して敏感であるのも納得がいく。ユンカース氏や「マジメなAAの話」の人物は、この「評価ゲーム」においてルール破りをしたため非難の対象となったのではないだろうか。

名無しワールドでのAA

と、本来ならここで筆を置きたい。だが、単にAA文化をオープンソース文化と同じとするなら、疑問が出てくる。それは、AAでは必ずしも基ネタを書く必要がないということである。例えば、2ちゃんねるなどにコピペするとき、そのAAの作者の名前を一緒に書くことは普通行われない。自分のAA作品に他者のAAを入れる場合でも、その作者の名前を入れることはあまり行われない。ようするに、明確に作者を偽る場合は別にして、「盗作」と考えられる敷居が高いのである。
「評判ゲーム」のみが存在するのなら、上記のような場合に作者の名前を共に書くことが推奨されるのではないか。
これの答えとしては、名前を一緒に書くことが面倒くさい(AAを作るうえでも作業効率を落としている)、何回もコピペされているため本当の作者が誰か分からなくなっている、という理由が考えられる。
その他に私は、2ちゃんねるという名無しワールドの影響が働いているのでないかと考えている。2ちゃんねるは、一般に名無しであることが推奨されている。自身の作品にコテを付けることがあるAA描きにしても、多くは2ちゃんねるの住民である。この2ちゃんねる文化が、AAにおける「評判ゲーム」の程度を下げているのではないか。

更新履歴

2007年12月13日-「評価」となっていたところを「評判」に訂正。

*1:というより仮説

*2:「他人の作品の全部または一部を自分のものとして無断で使うこと。剽窃剽窃)」:広辞苑第五版

*3:というより仮説